WW2戦後の社会背景
ここでは、第2次大戦(WW2)以後のシラチャの発展とSrimaharacha Companyの置かれた状況に密接に関連する、タイの社会背景、経済の発展について記します。
WW2戦後の状況(冷戦とアメリカ軍)
戦後、米ソの冷戦状態に入り、米国を中心とした資本主義勢力は社会主義勢力の東南アジアへの拡大を抑えるとともに、資本主義経済の回復を目指すようになりました。この動きの中で米国はタイの政府の政策に影響を与え続け、タイはそれに沿った形で政策をすすめていきました。
ベトナム戦争がはじまると、タイも資本主義陣営の一員として参戦することになり、同時に米国の7つの軍事基地がタイ国内におかれました。 Rayongにあるウタパオ空港には空軍の基地建設のための設備が搬入され、1958年4月にはDon Mueang空港を基地として最初の米軍の部隊がおかれました。
タイ経済の発展
WW2大戦後、タイは世界銀行の指導の下で社会経済の発展を目指しました。
第1次経済開発計画
世界銀行の提案に基づいて、1961年に第1次経済開発計画(1961-1966)が出されました。この計画では、輸入代替工業政策と消費財を中心とした新産業の開発を柱とした工業化の推進を目指していました。
ここで重点が置かれたのが次の2点。
① インフラ開発の促進(経済、教育、公的医療など) ・道路建設、運河・河川の水上物流、鉄道、電信・電話技術、発電) ② 工業、および農業の生産性国情による経済発展と国内需要の満足
ただし、この段階では新産業の開発は、ほかの地域よりもインフラの整っており、経済の中心となっていたバンコクとその周囲に限られたものでした。このため貧富の差、および都市部(バンコク周辺)と地方(北、東北地方など)との開発の格差の問題が発生しました。
第2次経済開発計画
1967年には第2次経済開発計画(1967‐1971)が出されました。狙いは第1次の計画と同様ですが、海外からの投資の呼び込みが含められました。これにより、目指した領域でのインフラ整備に成功し、国全体の成長につなげることができました。しかし、1次計画からの都市部と地方の不均衡の問題は残ったままでした。
第3次経済開発計画
第3次計画(1972-1976)までに、開発の目的は2つに絞られていました。① 経済成長と発展② インフラの整備
この計画では、方針を輸出指向興業政策策に転換しました。このなかです法的な施策を通じてバンコク周辺の工業化地域をほかの地域に移していきました。
タイ東部地域(シラチャを含む地域)の状況
従来の輸送手段
1961年から始まった第1次経済開発計画では、経済発展に必要な輸送手段の整備に重点が置かれました。
シラチャを含むタイ東部地域はバンコク地域につながる道路の整備が進んでおらず、河川・運河を利用した水上輸送が主となっていました。内陸各地からの物品は、一旦RayongやTratといった沿岸の港に集められるか、河川を利用してタイ湾にぬけた後、バンコクに運ばれていました。
従来のシラチャからの輸送手段も、船での輸送が主体となっていました。 Sriracha Companyの木材の輸出では、シラチャのKho-Loyの埠頭から船に乗せ、いったんバンコクまで海上輸送したあと積み替えたうえで輸出されるという状況でした。
道路網の整備
第1次経済開発計画(1961~)で重点が置かれた輸送手段の整備を促進するため、世界銀行の融資などによる資本投下、海外の近代技術の導入がおこなわれました。これにより滞っていた橋の建設などが促進され、道路建設が進みました。バンコクと東部地域をつなぐルートとして、1947年からSukumwit道路が整備されました。これは従来Bangkok-Trat道路と呼ばれており、1950年にSukumwit道路と名前が変更になりました。予算上の都合や、Bangpakong川にかかる橋の建設の遅れなどがあり、1958年までには未完成の状態でした。
第2次経済開発計画のころの1969年になって、ようやくバンコクからSrirachaまでのルートが完成しました。また、それまでは未舗装で、浸水する時期もあり使えたものではなかったRayongからChantaburiのルートも1967年には舗装が完了しました。Srirachaを含む東部地域とバンコクへの物流ルートができたことで、経済活動が発展することにつながっていきました。
その後、内陸のタイ東北部と沿岸を通るSukumwit道路につながる新たな高規格道路が建設されました。おおよそ1967年から1969年にかけて5本の道路が建設され、このうち国道304と311は、軍事的な意図をもって建設された背景があります。ベトナム戦争時、Sattahip港や、Utapao空港に輸送された武器等を、内陸にあるNakhon Ratchasimaの米軍基地に運ぶための戦略的な位置づけの道路とされていました。
アメリカ軍の軍事上の要求もあって建設された道路でしたが、結果として、経済活動となる物の輸送と同様に、人の移動を促進することになりました。
道路整備の影響
シラチャが含まれる東部地域に通っているSukhumwit道路が、自給自足経済に基づく生活道路としてではなく、をを新たな経済地域することを目的に作られました。道路の整備はタイ東部の経済を発展させ、地域格差を解消するという目的がありました。特に林業の発展、移民の鎮静化、商品作物農場の拡大といったことに大きな影響を与えました。
1961年の第1次経済政策が進められたあとの東部地域は、Sukhumwit道路の完成も影響して、農業・工業が大きく発展しました。農業では、キャッサバ、米、サトウキビといった商品作物が拡大し、工業では木材加工、精米・製糖工場といった農作物の加工が拡大しました。このことが東部地域の林業にも影響し、第3次経済政策で示された輸出指向工業化の経済政策に従って、商品作物の生産を始めるようになりました。
米軍基地の設置の影響
第2次大戦後からの東西の緊張やベトナム戦争に向かう動きの中で、タイには米軍の基地がおかれました。 RayongのUtapao空港にも空軍基地がおかれ、1960年代にはその近郊であるパタヤに米軍の保養地が作られました。米軍基地の設置は、米軍兵及びその家族に対するサービス業を発展させ、インフラの整備や経済発展という効果がありました。米軍の基地建設や道路建設を通じて、それにかかわるタイ人労働者に様々な技術が移転されていくことで、経済活動の促進につながりました。また、その周囲の街のインフラ整備(住居、娯楽、サービス、飲食など)の変化・拡大させ、地方からやってくる労働者の就業先を拡大することになっていきました。保養地・観光地としてのリゾート地の設置、商業地域の拡大は、以前は農業・漁業が主体であったその地域の労働者を次第にサービス業にシフトさせることになりました。
米軍の文化、スタイルに影響を受けたサービスをもとにしたリゾート地として成長し、観光産業が発展して行くことになりました。その半面、売春や他地域からの移住者の急増など、マイナスの影響も与え、麻薬、銃、人身売買、密輸などの犯罪集団が出現し、違法な資金の蓄積の温床となっていきました。
森林業と東部地域・シラチャ周辺の状況
林業と木材産業はタイの立憲革命(1932)以前から、重要な輸出産業となっており、木材輸出による利益は、1989年に森林利権の解消されるまで継続しました。
第2次大戦後、政府はタイ東部地域での林業保護を打ち出しました。大戦後の経済成長に重要な産業の一つとされ、外貨獲得の手段として重要視されたため、1947年以降、拡大していきました。このサイトで紹介している Srimaharacha Co., Ltd.もその実際例の一つです。
1947~1967の間の東部地域の林業保護の政策は、この地域への移住者を多く集めることになりました。そのころ進められていた道路整備により人の移動がしやすくなり、拡大する産業への労働者が供給できるようになっていたことも関係しています。特に干ばつの多いタイ東北部等の地方からの出稼ぎ労働者が新しい土地を目指して多く集まり、東部地域に定住するようになりって新たなコミュニティ・街を作っていきました。さらに、新たに土地を開き、新たに農園をつくり、農産物を売るようになっていきました。このことが現在の東部地域に多くの街があり、多くの農場が存在することにつながっています。
ベトナム戦争の頃になると、木材の供給不足や1967年ころから発生した森林の不法占拠などの問題により、林業は停滞状態になっていました。またベトナム戦争の終りころ(1973頃)になると、米軍の撤退にともなって次第に不景気となっていきました。
しかし、このころには第3次経済開発計画が進められており、林業以外の産業(農業・工業)による商品さん供物の生産や加工産業が成長していきます。また前述のサービス産業の拡大といった経済活動・労働者の就業先の変化が起こっていました。
参考文献
・จิรายุทธ์ สีม่วง (Jirayoot Seemung), Ph.D. Student, VNU, Hanoi - University of Social Sciences and Humanities, Vietnam
The of America and Thai State in National Development and the Socioeconomic Changes in the Eastern Thailand During the Vietnam War (1955-1975)
・Lets Go Pattaya
The Ultimate Guide to this Amazing City.
https://letsgopattaya.com/pattaya-history/
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